発達障害は矯正しないほうが幸せに生きられる!?
当時の成毛さんはマイクロソフト日本法人の事実上のトップで、
そんななかでビルのことを「なんだか、この人おかしいぞ」
会話の比喩表現がわからずストレートに受けとめてしまったり。「
発達障害のひとつの「アスペルガー症候群」
著書『発達障害は最強の武器である』(SBクリエイティブ)
長時間落ち着いて座っていることができない「多動性」
思ったことをすぐに言動に移してしまう「衝動性」
忘れものをよくする「不注意」が、ADHD(
と思うようになったものの、現在に至るまで、
深刻な発達障害の症状に苦しんでいる人たちからすれば、「
とも言っている。その理由は、
大人になってから発達障害かもしれないと気づき、
「ADHDはもし矯正しなくて済むものなら、
というメッセージを伝えたかったからだそうだ。
この本で成毛さんは、人と視線を合わせるのが苦手だったり、
興味や関心があちこちに散らばってしまったりする自分の特性に触
「マイクロソフトの偉い人」
決して「ちゃんとした人」ではなかったことがよくわかる。
さらに「マイクロソフトの幹部会は病院送りの集団のようだった」
発達障害を抱えていると思しき人が多くいたそうだ。
成長を続けられる理由だと私は思う」と、
そこに異論はない。人の顔色をうかがったり、
もがいている人もいることだろう。
また同書中の対談で香山リカさんが指摘しているように、
IT企業に就職してプログラミングに勤しめるわけでも、
個人的な話だが、発達障害を抱えていた小学校の同級生は、
食べ残したパンを机の引き出しに隠し、
彼を厄介者としか認識できていなかった。
この同級生のように孤立し、
そういう意味では成功の秘訣は「運」「鈍」(
なぜなら小学校では行動を問題視されたものの、
生徒会長にもなった。アルバイトと読書に精を出し、
ほとんど行かなかった大学も留年を覚悟していたのに、
そこで「治外法権」的な立場を得たことで、
子会社のアスキーマイクロソフトに出向。
本人の頑張りもあったとは思う。
同書は確かに、読み手に希望を与える。しかし同時に、
成功している「発達障害かも」と思っている大人に、
育つ環境によって格差ができてしまう状況を改善することに、
大手進学塾 塾講師のためになる話
私が某大手進学塾の先生とお話しさせていただいた時の記事です。
大手進学塾で講師として勤務しております。
高校・大学受験の指導をメインに行っているのですが、彼らの指導をしていて気づいたことがあります。
それは「将来の目標が定まっている生徒さんは成績が向上しやすい」ということです。
例えばこんな男子高3生がいました。
彼は「中学・高校の数学教諭を目指す」という明確な目標を持っていました。
一般的な生徒ですと、高校3年生の夏を過ぎても勉強に身が入らず、秋を過ぎてやっとその気になってくるというパターンがほとんどなのですが、彼は違いました。大学受験に向けて動き始めるのが他の生徒と比べても格段に早く、高校2年生の冬には志望校を決定し、志望校を決定してすぐに高1・2年の復習をメインに勉強を行っていました。その調子で勉強を続けた結果、高校3年生の夏の模試でA判定(合格可能性8割以上)をとることができ、最終的には第一志望校に合格しました。
合格した彼に「どうしてここまで頑張ってこれたの?」と聞くと「理想の数学の先生になるためにはどうしても勉強しなきゃいけなかったからです。」と至極当然なことのように返答されました。彼は平均的な生徒よりは若干学力水準が低かったため、「勉強が面白くてしかたない!」というタイプではなかったのですが、夢や目標のためならしかたないと自分に言い聞かせることで努力し続けることができたのだと思います。
もちろん彼のような生徒さんばかりではなく、残念ながら第一志望校に落ちてしまった生徒さんもたくさん見てきました。「なんで勉強しなきゃいけないの?」というのが彼らの口癖でした。
「勉強したって日常生活には関係ないことばかりだ」と何度も言われました。確かにその通りだと思います。ではなぜ勉強するのかと言われれば、「自分の夢や目標を実現するためにはとりあえず勉強しなければならないから」という1点に尽きると思います。
「なんで勉強しなきゃいけないの?」という疑問が口から出てくる生徒さんは往々にして夢や目標がないか、あっても曖昧な場合がほとんどでした。
そんな彼らに対して、「そんなこと言ってないで勉強しなさい」と声をかけるよりも、「先生と一緒に将来の目標を考えてみない?」と声をかける方がその後の成績の上がり方が良かったと実感しています。
子どもたちの成績をあげるためには、勉強法を考え直すのも1つですが、彼らの夢や目標を明確にしてあげることも効果的だと思っています。
この話を聞いて私も同じ意見をもちました。子供は目標に向かって頑張る力は大人よりも強く集中力も大人よりはるかに高いように感じました。(子供がボールに気を取られて飛び出すのも集中力が高いからだと私は思っています。)
ですから「あれをやれ!!」「これをやれ!!」というよりも目標を持たせてやってほしいと心から願っています。
それでは おつかれっす!!
最近の20代に流行ってるうつ病がやばい・・・
最近の20代に流行っている新型うつ病のお話です。
従来のうつ病とは うつ病(うつびょう、鬱病、欝病、英語: Clinical Depression)は、気分障害の一種であり、抑うつ気分、意欲・興味・精神活動の低下、焦燥(しょうそう)、食欲低下、不眠、持続する悲しみ・不安などを特徴とした精神障害である [wiki]
うつ病は「気持ちで負けているだけ」 「気合が足りん」など言われてきましたがしっかりとした病気だと私は思います。
しかし新型うつ病と呼ばれるものは詐病(仮病)ではないのか・・・と考えています。
旧型と新型の違いは ①感情に起伏がある ②仕事が休みの時の体調が違う などがあります。
①の説明としては旧型は 感情の起伏があまりない 新型は楽しむときは楽しみ、仕事の時にはやる気が出ない
②の説明としては 旧型は仕事あるなしにかかわらず気分が沈んでいるが 新型は仕事の時だけ沈んでいます
この時点で「んっ・・・?」となりませんか??
これが新型うつなのです 仕事辞めろよ
皆さんもうつ病にかからないよ気を付けて働いたり学校生活を送りましょう
それでは おつかれっす!!
ある教員のお話シリーズ1
まともな家庭に生まれなかった自分が、「学校の先生や友達のお蔭でまっとうに生きてこられた」、という恩返しの気持ちで、教師を志望し35年が経過しました。教職中は、家庭の確立していない、ともすると「いじめの対象」や「不登校」になりがちな子どもを昔の自分とダブらせて接していました。
数年前、給食制度の充実を図るため、食育の一環として「弁当手づくり、持参」の企画が提案されましたが、小中校各2年間、大学3年間の新聞配達をした上に、弁当も自分で造っていた私は猛反対をしました。さらに出来栄えのいい弁当は写真を撮って掲示するとも。今当時の私のような生徒がいたら、聞く耳を持たない親から、お金だけもらって、コンビニの弁当棚の前で立ちすくみ、おかずだけを手づくり風に弁当箱に詰め、学校では隠しながらの姿があって、自分の家のダメさをさらに思い知らされると同時に、友達の家をさらに羨む心だけが育まれると思ったからです。
同様に自分のみじめさを、もっと感じている対象として、障害を持っている子ども達のことが気がかりでならず、終盤は「特別支援学級」の担任を申し出て、7年間自分の専門教科の体育以上に、より意欲的に取り組みました。
学校が絶対多数の絶対幸福的な考えで経営される限り、落ちこぼしの子どもがでます。「教育基本法、第3条には(教育の機会均等)すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。」これ嘘です。
学級のテーマを、「人が最も大切にされるクラス」にして、担任である自分が、「困り感」のある生徒に焦点を当て支援・指導してきました。教職のはじめは丁度、「第2教育荒廃期」のころで全国的に学校が荒れていました。ほとんど毎日「問題の発生」や「家出擬き探し」そして「暖簾に腕押し」状態でした。
しかし、この子ども達もほとんどが、家庭が形作られていないことによる犠牲者だと思いました。迷惑をかけた罪滅ぼしの作業として、朝早くに登校して、保護者・生徒、自分達で除草作業をしたことが印象深いです。
仕事等の忙しさで子どもを構えず、家出探しを教師に任せざるを得ない、保護者が自らの責任を重々感じて私達と共感されたもので、決して今のクレーマー、教師バッシングはありませんでした。
というお話でした。
いかがでしたか?
ストレスを感じやすい世代と対応策
昔の子どもに比べて今の子ども達は「ストレス」という言葉を日常的に使うようになった。
子育てに関しても、なるべく子どもにストレスを感じさせないよう「ほめて伸ばす」のが良い育て方という風潮がある。
ほめて伸ばせればもちろんそれでよいのだが、逆にしつけ・教育の中で「叱る=だめな事」という空気感が強くなりすぎているような気がする。
叱られると確かに人間はストレスを感じるかもしれない。だが、ストレスとは人生で避け続けられるものだろうか。子ども時代にストレスをあまり受けないことによりストレスに弱い人間が増えている気がする。
また、少し叱られると「ストレスを感じる」と被害者のように訴え、本当に叱られた意味をくみ取れない子どももよく見かけるようになった。
「ほめて伸ばす」のと同様「叱る」ことも人間を育てることにおいて大切なメソッドの一つではないかと思う。過度なストレスはもちろんよくないが、叱られたことで感じるストレスをどう乗り越えていくかという試練は人間を成長させるだろうし、乗り越えた時にこれから先の人生でのちょっとした自信につながるのではなかろうか。
もちろん、子どもに対して感情的に「怒る」のはなるべく避けるべきだが、常に「ほめなくては」という呪縛から子育てに関する人々はもう少し開放されてもよいのではないかと思う。
子どもがストレスに直面することを恐れず、ストレスに強い=生きていく力の強い人間として成長させていくにはどうしたらよいかという方向で育児のあり方が議論されるとよいのでは、と思っている。
グローバル化の教育と・・・リーダーシップの話
バイリンガル幼児園として設立され、基本的にはネイティブやバイリンガルがクラスを担当し、スポーツや音楽といったものは専門の先生+幼児園の先生で展開されるというものでした。
現在は一人っ子が多い中で、年齢の違う子どもたち同士で遊ぶというのが少なくなっていますが、縦割りの運動指導が行われている幼児園がありました。
Ninja9という名称の元、忍者の服を着て各チームごとで競技を競い合うというのが特徴です。この中のチーム編成としては年少々・年少・年中・年長というように縦割りのグループとなり、年長の人が下の子たちにいろいろな事を教えながら競技をクリアしていくというものです。
スポーツをすると言う事でなくリーダーシップが求められる他、考える力が身につくと言う事で現在は様々な幼稚園などで展開をしています。
当然、年少々の子どもたちは年上のお兄さん・お姉さんの言う事を聞きながらルールを理解し、競争(障害物競走やボールゲームなど)で勝つ為の方法を学んでいきます。そして年少々の子が年少・年中・年長とあがっていくにつれてリーダーシップを発揮していくのです。
その子どもたちの人間関係は社会に出たときに使えるものです。当然、子ども同士で喧嘩をする場面もありますので先生が手を差し伸べる場面もありますが、子どもたちに解決させる能力も身につけることが出来ます。
こうした取り組みは、社会に出て行く上で重要なカリキュラムではないかと感じました。